ぶりだいこんブログ

推理小説とか乃木坂46の話をしています。

乃木坂46 22ndシングル選抜メンバー予想

 2018/9/23(日)の「乃木坂工事中」にて、乃木坂46の22ndシングルが、2018/11/14(水)に発売されると発表された。選抜メンバーは2018/9/30(日)の「乃木坂工事中」で発表されるとのこと。

  ブログは時代のログなので、メンバー選抜に関して、自分の予想をメモしておこうと思う。

情勢

 実を言うと、少し前まで、22ndのセンターを生田絵梨花さんだと予想していた。というのは、白石麻衣さん、齋藤飛鳥さんとセンターが続き、2018年は「過去に単独センターを1回だけやったメンバーの再登板」が隠しテーマではないかと勝手に想像していたからだ。もちろん、この条件の場合、堀未央奈さんも該当し、有力候補の一人である。自分が生田さんを本命と予想したのは、生田さんは既にミュージカル界でも重宝されており、今後より一層乃木坂46外の仕事が増えることが予想され、今だって多忙だろうが、それでも来年よりはまだマシという判断によるものである。
 次点では、2018年8月に『CanCam』の専属モデルへ抜擢され、乃木坂46版ミュージカル『美少女戦士セーラームーン』の主役月野うさぎを演じ、坂道合同舞台「ザンビ」でも与田祐希さんと共に乃木坂46を代表しての出演が決まっている、山下美月さんを考えていた。山下さんは、2018/9/12(水)に配信された「ザンビ」メンバー発表のSHOWROOMで突然カメラの前に引っ張り出された際も、実に落ち着いた対応を見せたのが印象深い。
 が、2018/9/20(木)に西野七瀬さんが乃木坂46からの卒業を発表した。この卒業発表のタイミングは22ndシングル制作と強い関係があると見るのが妥当だろう。一方、生駒里奈さんが確立した「必ずしも卒業センターをやらなくてもよい」という新しい流れも考慮すべきである。

事実関係のおさらい

 ちなみに、2018/9/12の「ザンビ」SHOWROOMで、運営委員長の今野義雄さんが、与田さんは22ndシングルの制作中だという話をしており、ファンの間では選抜に関するリークではないかと指摘があった。しかし、実際の配信を聞く限り、今野さんは「表題曲の制作中」だとは明言していない。まあ、与田さんは事実上永世選抜みたいなものなので、リークがあろうがなかろうが、なのだが……
 さて、気を取り直して、個別握手会の完売数は、完売表でおなじみのジーンさんのデータを参考に記述。

(1)21st個別握手会不参加メンバー

 秋元、白石、西野、若月、衛藤、松村(以上6名)

(2)21st個別握手会30部完売メンバー

 ※かっこ内数字は完売次。
 飛鳥(5)、山下(5)、与田(5)、堀(5)、大園(5)、星野(5)、新内(5)、鈴木(5)、理々杏(6)、優里(7)、山崎(7)、岩本(8)、樋口(8)、佐藤(10)(以上14名)

(3)21st個別握手会30部完売に準ずるメンバー

 ※30部未満完売だが、これまでの推移からして仮に30部だったとしても完売と推測されるメンバー。
 高山、桜井、井上、梅澤、生田、寺田、渡辺(以上7名)

(4)休業中メンバー

 久保

予想

 どうせ(と言ってはいけないんですが)、選抜発表も「乃木坂工事中」の番組終わりにさっと流すだけだろうで、予想もあっさりめに。

予想

 秋元、白石、西野、若月、衛藤、松村、飛鳥、山下、与田、堀、大園、星野、新内、高山、桜井、井上、梅澤、生田、理々杏、渡辺、北野の21名。(理々杏、渡辺、北野in、岩本、優里、鈴木out)。センターは西野。

 以下、予想のポイント。

  • 北野さんについては悩ましいところである。この前の「乃木坂工事中」のクイズ回を観る限り、まだ本調子ではなさそうなのだけれども、一方、北野さんの資質でこれ以上留め置いていてもしかたがないのではないか、とも思うし……悩ましい。
  • 理々杏さん、渡辺さんも悩ましい。樋口さん、寺田さんと明確な差があるわけではないですが、新選抜が増えた方がよいので。
  • センターは、個人的には生田さん、山下さんを推しているのだけれども……(負け惜しみかよ)

【2018/10/1追記】
 答え合わせは以下です。

buridaikon.hatenablog.com

 

 ちなみに、前回21stシングルの選抜メンバー予想は下記。

buridaikon.hatenablog.com

『マガディーラ 勇者転生』(S・S・ラージャマウリ/2009)

 2017年に日本でも公開されカルト的なヒットとなった『バーフバリ』2部作で知られる、インド・テルグ語映画の監督S・S・ラージャマウリによる2009年の作品。
 400年前に悲恋を迎えた姫と剣士が現代に転生し、再び出会い恋に落ちる。一方、400年前も二人の仲を引き裂いた卑劣漢もまた現代に転生し、再び二人の仲を引き裂こうとする……
 出演はラーム・チャラン、カージャル・アグルワール、デーウ・ギル、スリハリら。

www.youtube.com


 ※ネタバレしています。

 冒頭、剣戟と共に一人……三人……三十二人……という人数を数えるセリフだけが流れ、なんだろうと思わせる。こういう、見所を先取りして披露するのがラージャマウリ監督はうまい。
 次に、17世紀の剣士と姫が崖から転落死する場面が描かれる。これも、なぜ二人は愛し合っているように見えるのに結婚しなかったのか、そして、なぜ死に至ることになったのか、というのが謎めいて描かれる。
 続いてようやく舞台が現代インドに移り、主人公ハルシャがバイクに跨り颯爽とジャンプして、ばーん! と決めのポーズと名前のテロップ! ダサかっこいい!
 障害バイクレースに参加し、主催者の意地悪でいきなりバーの高さを上げられるも、バイクから手を離し、バイクと自分の間にバーを通すことで障害をクリアするというありえない技を見せ、レース場の見物客と、そして映画館の観客を魅了する。これも、冒頭エピソードで主人公をピンチに追い込み、斬新なアクションで切り抜けさせ、一気に主人公を主人公たらしめる、というラージャマウリ監督のお家芸の一つだ。
 レースの賭け金を盗んだ女を港まで追いかけてきたハルシャたち。ここで突然、ダンスミュージカルが始まり、ハルシャ演じるラーム・チャランがキレのあるダンスを見せる。ちなみに、エンドロールでは、キャスト陣とスタッフたちが入り混じってテーマソングに合わせダンスするオフショットが描かれる。垢抜けない踊りのスタッフに比べると、キャスト陣のダンス基礎スキルの高さは歴然としている。インド映画界ではやはりダンスを踊れないと役者になれなかったりするのだろうか……
 それから、ハルシャとヒロイン・インドゥが出会うんだけど、このベッタベタなスクリューボールコメディ的展開ね……お笑い要素も相まって、非常にくどいというかなんというか、このパートだけでも十分おなかいっぱいになれます。
 さて、悪役のラグヴィールが登場するんですけれども、自分たちを訴えてきた弁護士をいきなり投げ槍で射殺するくだりで、ザ・悪役というか、相変わらず「悪人にもいいところがある」的要素ゼロの作風に感服いたします。っていうか、告訴してきた弁護士は殺してしまえばいい、ってこれ現代インドが舞台なんですよね……?
 ってまだ序盤も序盤なんですけどこの調子で味わい深い場面を取り上げていく終わらなくなってしまう……いやね、他にも分かりやすく鳥が飛び立つ場面とか、ラグヴィールが街中でも槍投げをし始め、しかもそれが最終的にハルシャのかっこいい騎乗シーンにつながるわけの分かんない展開とか、ラグヴィールがインドゥのストールをすはすはする場面とか、え、敵が迫ってるのに武術大会するの? とかほんといろいろ取り上げたい場面がある。
 全般的に、『バーフバリ』と比べると、やはり予算の違いによるビジュアル面のチープさはあるし、脚本もざっくりした展開が多く若干納得感を得づらくなっている。しかしながら、上述の通りラージャマウリ監督の基本的なテクニックは十分に収められているし、クライマックスの100人斬りの場面は、舞台を崖の上の一本道に演出したことで横スクロール風の今っぽい迫力シーンに仕立て上げられている。その他、『バーフバリ』では削ぎ落されたインドローカル風味の演出も、かえってスパイシーでよい味を出しているともいえる。
 我々が既に『バーフバリ』という完成形が知っているからこそ、より楽しみどころを理解しやすい映画、であるかもしれない。

Magadheera (Original Motion Picture Soundtrack)

Magadheera (Original Motion Picture Soundtrack)

 

『元年春之祭』の実写キャスティング考

『元年春之祭』(陸秋槎)は古代中国が舞台で漢籍の引用も多く、なかなかビジュアル的な想起がしづらい作品ではあるのだが、メインとなる三人の少女の掛け合いのくだりに至り、この三人を実写キャスティングでイメージすると捗るのではないかと思った(えー)。
 前回の記事からの流れで、自分が応援している女性アイドルグループ乃木坂46のメンバーからキャスティングするのであれば、というところで書いてみた。

buridaikon.hatenablog.com

  ※以下、ネタバレしています。 

於陵葵(おりょうき)

 クールで毒舌で読書家で強がり美少女、ということで、これはもう齋藤飛鳥さんですね。

www.youtube.com

 2018年現在、日本で最も人気のある女性アイドルグループのセンターの子が一番好きな作家が貫井徳郎ってすごくないですか?

otocoto.jp

観露申(かんろしん)

 旧楚の山間部の育ちで、学問的な素養はないものの感情のままに素朴に行動するところが於陵葵の気を引かせる、というところで、これは北野日奈子さんを推したい。

www.youtube.com

 北野さん(観露申)と飛鳥さん(於陵葵)の関係性だと、以下の動画かなあ(22分53秒頃から)。

tv.rakuten.co.jp

小休(しょうきゅう)

 於陵葵に暴言暴力を連発されるけど満更でもない小休、これは与田祐希さんでしょう。

www.youtube.com


 与田さん(小休)と齋藤飛鳥さん(於陵葵)の関係性はむしろ下記の写真が、一言で説明できる。

mdpr.jp

 関係性でいえば、非公式なものなのでその内なくなるかもだけど、こちらも。

www.youtube.com

 

 前回記事でも言及したけれど、著者の陸秋槎氏は日本の女性アイドルの知識もあるし、本書を読了された方なら、日本の女性アイドルを引き合いに出すのは、むしろある側面で正しい、という点もご理解いただけるのではないだろうか。

2018/9/13追記

 陸秋槎先生よりお墨付きをいただきました。

 

『元年春之祭』(陸秋槎/2017)

 古代中国、前漢の旧楚の地域を舞台に、祭祀を担う一族が次々と殺害されていく。現場は衆人環視の密室。長安より客人として招かれていた豪族の娘於陵葵(おりょうき)は、一族の娘観露申(かんろしん)と共に、四書五経の知識を駆使して謎に挑む。
 著者の陸秋槎は中国北京の出身。中国でのミステリ文学賞である「華文推理大奨賽」を受賞し、デビュー。日本語に堪能で日本の推理小説に造詣が深い。本作が長編デビュー作であり、日本初翻訳作品でもある。現在は金沢に在住している。

元年春之祭 (ハヤカワ・ミステリ)

元年春之祭 (ハヤカワ・ミステリ)

 

  ※ネタバレしています。

 これはまたとんでもない作品が出てきたなと思った。主人公は前漢武帝の時代の知識人という設定なので、会話の中で当たり前のように『論語』や『詩経』が引用される。祭祀に使われる器具も想像のつかないものばかり。ペダントリーに過ぎないと分かっていても、頭がくらくらする(これ、訳者の方は訳すの大変だったでしょうね……)。
 それでも読み進められるのは、知識を鼻にかけた暴言暴力少女於陵葵(おりょうき)、素朴な育ちで葵に反発と憧れを抱く観露申(かんろしん)、於陵葵の召使でどこまでも忠実な小休(しょうきゅう)の三人の少女の掛け合いが、これは著者の目論見通りなのだろうけれども、一種ライトノベル的に類型的で、甘酸っぱさみたいなものがあるからだろう。
 二つの事件が描かれる。一つは、観露申の親族の家で過去に起こった、その家の娘だけが生き延びた一家惨殺事件。もう一つは現在進行形で起こる観一族の連続殺人事件。それぞれ、古代中国で密室を構成するために、雪密室と衆人環視の密室を引用している。
 解かれるトリックよりも、むしろホワイダニットインパクトを与えるだろう。自分は解決偏を読んで「あ!」と思ったのだけど、それはまた別の記事で書くと思う。
 あとは、前半で楚の詩人屈原が実は女性であったという説が議論される。屈原の詩作『離騒』で女性の視点で描いた詩があるけれど、それは比喩でなく実際に女性だったからだ、というのが一つの論拠となっていた。なかなか面白く読んだけれど、中国でどれほど支持されている説なのだろうか。
 総じて、著者の漢籍に対する深い知識が全面的に反映された、他に類を見ない推理小説だと思う。個人的には、現代を舞台にした作品も読んでみたいと思った。あとがきによると、続刊である『雪が白いとき、かつそのときに限り』と『桜草忌』は学園ものだそうなので、そちらの翻訳も楽しみにしたい。

 余談だが、著者の陸秋槎氏とは、以前、Twitterでほんの少しだけやり取りをしたことがある。確か、「坂道シリーズ」の百合性についての話題だったように思う。「推理小説とか乃木坂46の話」をする当ブログで、本作を取り上げないわけにはいかなかった。

 

buridaikon.hatenablog.com

 

buridaikon.hatenablog.com

『ゲームの達人』の「超訳」と原文の比較

 シドニィ・シェルダンの諸作は、日本ではアカデミー出版より翻訳されており、アカデミー出版はこれを「超訳」と名付けている。

  「超訳」は、自然な日本語を目指して進める新しい考えの翻訳で、アカデミー出版登録商標です。
 「超訳」をひと言で説明するなら、日本語本来の語感を見失わないことを絶対条件にした翻訳のことです。例えば五七五の条件の中で俳句を作るように、といえば分かりやすいでしょうか。
 英語の小説を"普通に"翻訳したとします。つまり、過去形は過去形に、形容詞の数も同じに、関係代名詞も真面目に・・・・・・。でき上がる訳文は、意味は通じても、へんてこな日本語になりがちです。英文法と英語社会の約束ごとを押し込んだ、いわゆる翻訳調の回りくどい日本語です。程度の差こそあれ、この回りくどい日本語の蔓延が翻訳小説の出版事業を著しく困難なものにしていました。読者に敬遠されて本が売れないのです。米国で200万部売れたベストセラー小説が、日本語に訳したら2万部も売れなかった、といった例は枚挙にいとまがありません。
 そこで「超訳」では、原作の面白さを充分に引き出すために、作者から同意を得た上で、いたずらに英語の構文にとらわれることがないよう、自由な裁量で日本語の文章を書き上げています。

EAの秘密:イングリッシュ・アドベンチャー - 英語の勉強・学習なら - 英語教材のアカデミー出版

 実際、どの程度「超訳」されているのだろうか? 読み終えたばかりの『ゲームの達人』について、"Master of the Game"を購入し、少しだけ比較してみた。
 比較対象は、原書はHarperCollins Publishers Incの電子書籍2016年3月17日バージョン、日本版は2010年の「新超訳」版である。
 なお、自分は翻訳の素人なので、誤って解釈している点があるかもしれない。また、一般的な翻訳がどのレベルで意訳されているかの知識もないので、これくらいの意訳は当たり前だということもあるかもしれない。

ネタバレしてます。

Master of the Game

Master of the Game

 
ゲームの達人(上)

ゲームの達人(上)

 

プロローグ(1) 

 まずプロローグだが、実は少なからぬ差異がある。ケイトの誕生パーティーが行われる場面であることはおなじなのだが。
 まず日本版の書き出し。

 少数の金持ちが排他的に暮らすアイルズボロ島。米国東海岸メイン州のペノブスコット湾に浮かぶこの島で、この日、稀代の傑女、ケイト・ブラックウェル九十歳の誕生パーティーが催されていた。場所は、海に面して建つ彼女の壮麗な別荘、シーダー・ヒル・ハウス。この物語の舞台のひとつとなる場所である。
 招待されているのは、各界から厳選された百名の男女とケイトの家族のみ。
 ブラックタイで正装した紳士に、きらびやかな夜会服を身に包んだ淑女たち。 (プロローグ)

 個人的にこのような直截的な書き出しは、読者にとって分かりやすく、決して嫌いでない。
 次に原書版の書き出しを見てみよう。うしろに簡単に和訳をつけてみた(間違っているところがあっても許してください)。

The large ballroom was crowded with familiar ghosts come to help celebrate her birthday. Kate Blakwell watched them mingle with the flesh-and-blood people, and in her mind, the scene was a dreamlike fantasy as the visitors from another time and place glided around the dance floor with the unsuspecting guests in black tie and long, shimmering evening gowns. There were one hundred people at the party at Ceder Hill Houese, in Dark Harbor, Main. Not counting the ghosts, Kate Blackwell thought wryly. (Prologue)

 広い舞踏場は彼女の誕生日を祝いに来たなじみの幽霊たちでいっぱいだった。ケイト・ブラックウェルは血肉をもった人間たちに混じる幽霊たちを見た。異なる時間と場所からの訪問者が、黒のタイときらきら光るイブニングドレスを身にまとった疑いをもたない客で満たされたダンスフロアを静かに動き回る光景は、彼女にとって夢のように幻想的だった。メイン州ダークハーバーシーダヒルハウスのパーティーには百人もの人がいた。「幽霊たちを除いて」ケイト・ブラックウェルは茶化すように思った。

 まず思ったのは、全然違うじゃん! というものだ。日本版では、このセンテンスで幽霊云々に一切触れていない(後段では触れられる)。逆に、「少数の金持ちが排他的に暮らすアイルズボロ島」とか「この物語の舞台のひとつとなる場所である」とか原文に書いてないことが書いてある。
 次に、原文の方がより文芸的だと感じた。もちろん好みがあるのでどちらがいい悪いというのは難しいのだけれど、日本版は純粋に事実関係のみを述べており、言外の意はほぼ存在しないといっていいだろう。一方、原文は現実と幻想が入り混じって描かれており、おや、と思わせるものがある。文章自体も日本版に比べると洗練されているといってよいと思う*1
 このあと、ケイトがバンダやデビッドの幽霊を見たり、曾孫のロバートがオーケストラとピアノを弾いて音楽的才能を垣間見させるという場面もあるけれど、日本版では完全にカットされている。

プロローグ(2)

 知事がスピーチをするくだりから、原文と日本版はようやくほぼ同一の流れになる。が、その中でも注目すべき差異がある。

〈(前略)わたしの体に残る銃弾の跡を見せてあげたい。みんなはなんて言うかしら!〉
 かつて自分を殺そうとしたその男もこの会場の祝賀客に混じっている。ケイトがその男に目をやると、男はこちらを見てにやりと笑った。
 男の背後には身を隠すようにして座る女の姿があった。ケイトの視線は男から離れて、その女のところで止まった。顔をベールですっぽり覆っているその女は、ケイトの視線に気づくと、恥ずかしそうにうつむいた。ベールの奥には身の毛もよだつような顔があるはずだ。裁きを受ける前は絶世の美女だったのに。
 遠くで雷が鳴っていた。州知事の演説が終わるのを待って今夜の主役、ケイト・ブラックウェルは立ち上がり、食事を終えた客たちを見回した。 (プロローグ)

   What would they think if I showed them the bullet scars on my body?
 She tunred her head and looked at the man who had once tried to kill her. Kate's eyes moved past him to linger on a figure in the shadows, wearing a vail to conceal her face. Over a distant clap thunder, Kate heard the governor finish his speech and introduce her. She rose to her feet and looked out at the assembled guests. (Prologue)

「わたしのからだにある銃痕を見せたらみんなはなんと思うだろう?」
 彼女は首を動かして、かつて彼女を殺そうと試みた男を見た。ケイトの目は、彼の後ろで顔を隠すためのヴェールをまとい陰に隠れようとしている女性の姿を捉えた。遠くで雷が鳴った。知事がスピーチを終え、ケイトを招いているのが聞こえた。彼女は立ち上がり、集められた招待客を見た。

 男(トミー)、全然にやりと笑ってねー! 女(イブ)、全然恥ずかしそうに俯いてねー! 特にトミーの描写、大胆な加工だなと思うのが、ケイトを殺そうとした人物がなぜ彼女の誕生パーティーにいるのか? というのが読者にとってのミステリーなわけですが、にやりと笑わせることでそれをさらに強調しているんですね(後々、トミーの顛末を知ると、にやりと笑うのは明らかにミスディレクション)。こういう手を加えるか~となかなかびっくりしました。ただ、原文はほのめかし程度で少し分かりづらいかもしれないので、日本版のように伏線として強調するのも、ありといえばありなのかもしれない。

プロローグ(3)

 プロローグの末尾。雷鳴が1982年のアメリカから100年前の南アフリカへ一気に時空を飛ばす名演出だが、これも日本版と原文で若干雰囲気が異なる。

 ふたたび窓の外が光り、雷鳴がとどろいた。ケイト・ブラックウェルは振り向いて家族たちを見下ろした。彼女が話す英語には南アフリカで暮らした先祖のアクセントが残っていた。
南アフリカではこんな嵐を"ダンダーストーム"と呼ぶんです」 (プロローグ)

 There was a blaze of lightning and seconds later a loud clap of thunder. Kate Blackwell turned to look down at them and when she spoke, it was with the accent of ancestors. 'In South Africa, we used to call this a donderstorm.'
The past and present began to merge once again, and she walked down the halfway to her bedroom, surrounded by the family, comfortable ghosts. (Prologue)

 稲光が走り、数秒ののち、雷鳴がとどろいた。ケイト・ブラックウェルは振り返って彼らを見下ろした。彼女が喋り始めた時、そこには先祖のアクセントが混じっていた。「南アフリカでは、こういう嵐をダンダーストームと呼んでた」
 過去と現在が再び融け合い始めた。彼女は寝室へ向かうために階段を降りる。家族と、優しい幽霊たちに囲まれて。

 日本版の、「ダンダーストーム」というキーワードでそのまま第一部へつなげる、切れ味のある演出は悪くない。が、原文はさらにもう一文挟んでいる。この一文を挟むことで、「過去」と「死者」が本書のテーマであることをより際立たせているようにも感じる。

第十四章

 これまで取り上げた例だと改変ばかりに見えてしまうけれど、省略も増補もしていない箇所は当然ある。むしろ基本的にはそちらの方が多い。一つだけ例示を。書名にある「ゲームの達人」というフレーズが登場するくだりだ。文章が一対一になっているので、試訳はいらないと思う。

 ケイトは仕事中心の生活を心からエンジョイしていた。どんな決定にも数百万ポンドのギャンブルが付きまとう。ビッグビジネスとは、機知と、賭けをする勇気と、のるかそるかもタイミングを見計らいながら本能を使ってする真剣勝負なのだ。
 そのへんのことをデビッドはケイトに教え込んだ。
「ビジネスにはゲームみたいなところがある。途方もない額の賭け金をとり合うゲーム。相手は百戦錬磨のつわものぞろいだから、もしゲームの勝利者になりたかったら、"ゲームの達人"になる勉強をしなくては、勝ち目はない」
 ケイトはわが意を得たりと決意を新たにした。今は学ぶときである。 (第十四章)

 Kate enjoyed her new life tremendously. Every decision involved a gamble of millions of pounds. Big business was a matching of wits, the courage to gamble and the instinct to know when to quit, when to press ahead.
'Business is a game,' David told Kate, 'played for fantastic stakes, and you're in competition with experts. If you want to win, you have to learn to be a master of the game.'
And that was what Kate was determined to do. Learn. (Chapter Fourteen)

まとめ

 総じて、日本版は「超訳」の名の通り、事実関係を簡潔に畳みかけ、先取りして伏線を強調することで、テンポよく読み進められるようある程度改変しており、確かに日本で翻訳ものとして大ベストセラーを狙うのであれば、こういうアウトプットになるのかもしれないと思った。
 一方、原文も基本的な話運びは同一であり、その意味で本書の特徴であるスリリングな展開の連続で読者をひきつける手法は変わりないものの、もう少し描写に含意というか味わいがありそうなので、時間が許せばあれば読み通してみたいと思った。

*1:小説の書き出し、についてはいろいろな論があるけれど、個別の小説の書き出しでも優劣をつけるのは難しい。なぜなら、ある小説について書き出しは一つしかないからだ。書き出しAと書き出しBを比べるということはできない。だからといって別々の小説の書き出しを比べても、話が違うのだから単純に書き出しだけを比べるというのはあまり意味がないだろう。
 しかし、『ゲームの達人』は「超訳」というものがあるため、結果的におなじ小説に二つの書き出しが存在することになっている。
 比べると、日本版の書き出しの方がどうにも安っぽい。書き出しだけで比べたら、原文に軍配を上げる。けれども、それはスノビズムというものではなかろうか。含意のある文章は、読むのに神経を使う。仮に原文の文体が続くのだとしたら、数時間読み続けることができるだろうか? むしろ、日本版の方が文章の裏の意味を読み取る必要がなく、筋立て(それもとびきりエキサイティングな)により集中できるのではなかろうか。
 つい凝った書き出しの方を評価してしまいがちだが、それは一種の「読書マウンティング」と呼ぶべきようなものではないか、となんとなく思ってしまった。

『ゲームの達人』(上)(下)(シドニィ・シェルダン/1982)

 子供の頃、朝の情報番組のベストセラーランキングでシドニィ・シェルダンの『真夜中は別の顔』等の著作が常に上位をキープしているような時期があった*1。そんなに面白いものなのだろうかと思ったが、当時は翻訳ものに手を出すという考えがなかった。
 その後、確か中島梓のエッセイだったと思うが、シドニィ・シェルダンが取り上げられており、面白いけれど文学性はないというような評価がされていたように記憶している。
 ふと思い出して検索してみたらKindleで購入可能だったので、読んでみることにした。

ゲームの達人(上)

ゲームの達人(上)

 

  シドニィ・シェルダンアメリカの脚本家、小説家。映画脚本家としては1947年にケーリー・グラント主演の『独身者と女学生』でアカデミー脚本賞を受賞。TVドラマでもヒット作を飛ばした。その後、小説家に転じ、『ゲームの達人』、『真夜中は別の顔』、『天使の自立』等のベストセラーを連発。日本ではアカデミー出版による「超訳」で知られる。本書『ゲームの達人』はアメリカで1982年に出版された。日本では1986年に翻訳されている。

 ※以下、ネタバレをしています。

 商品説明にもあらすじが書いてないし、いったい全体どういう話なんだろうとわくわくして読み始めたところ、南アフリカアメリカを舞台に、無名の若者から始まり四代に渡って世界的な財閥を築くに至るまでを、ツイストたっぷりに描く娯楽大作であった。
 プロローグは、ケイト・ブラックウェルという資産家の女性が90歳の誕生パーティーを開く場面である。ここで意味ありげな過去のエピソードがほのめかされ、嵐というつながりから一気に100年前の南アフリカへ時空を飛ばす演出は秀逸。
 全体としては五部構成となっており、一族の始祖であるジェミー・マクレガーがクルーガー・ブレント社を築く第一部、娘のケイトが大番頭のデビッド・ブラックウェルと結婚するまでが第二部、ケイトの息子トニーが画家を目指すようになるまでが第三部、トニーの精神崩壊を描くのが第四部、そして、トニーの双子の娘イブとアレクサンドラの数奇な運命を描く第五部という構成である(ちなみに、第一部の筋立ては概ねアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』のようだ)。
 面白いかどうかでいうと、これほどエキサイティングな小説は滅多にないかもしれない。
 基本的には「人間関係」の「緊張」と「緩和」の「連続」が物語の推進力となっている。この「人間関係の緊張と緩和」で特徴的なのは、緊張している人間関係は原則的に常に一つであり、緩和の過程で新しい緊張が生まれる、という点だ。例えば、物語の始めに訪れる緊張関係は主人公ジェミーとボーア人の狡猾なダイヤモンド商ヴァンダミヤとの間に発生するものだが、この緊張関係が緩和し始めると次はヴァンダミヤの娘マーガレットとジェミーの関係が緊張する。ジェミーとマーガレットの関係が緩和すると、今度はマーガレットと娘であるケイトの関係が緊張する(緊張が緩和する過程で、緊張関係の片一方を担う人物は死亡するか廃人になり物語の舞台からだけでなく人生からも退場するケースが多いのが、本書の容赦なさを際立たせている)。
 もう一つの特徴は、緊張関係にいる当事者が、緊張状態であることを認識していない場合があることだ。例えば、しばらくの間、ジェミーはヴァンダミヤに騙されていることを知らないでいる。マーガレットもまたジェミーに騙されていることになかなか気づかない。完全な状況を知っているのは読者のみである。
 こういった、人間関係の緊張と緩和を矢継ぎ早に提示しつつ、読者だけに緊張状態であることを正確に把握させ、緩和を望ませるというのが物語の推進力になっていると言える。
 一方で、込み入った事件の構造とか、はっとするほど美しい情景描写とか、人生におけるユーモアとペーソスが鮮やかに切り取られているとか、そういう要素はなく、だからこそというか、するすると読み進めることができる。
 キャラクターに魅力がない、とは言うまい。どの人物も思い込みが激し過ぎる嫌いはあるけれど、それぞれなりの信念があって動いているのは分かる。ただ、ヒーロー、ヒロインとして好きになれるような人物がいないこともまた事実であろう。
 エンタテインメントにおいてお話を転がせることは必須であろうが、お話を転がせること「だけ」に特化して物語を組み立てるとこうなる、というある意味実験小説のような作風だとも思った。
 が、ここで気になるのは「超訳」というキャッチフレーズである。超訳というのは、「原作の面白さを充分に引き出すために、作者から同意を得た上で、いたずらに英語の構文にとらわれることがないよう、自由な裁量で日本語の文章を書き上げています」*2ということだが、もしかして、原書は端正な文学小説だが、翻訳によって上記のような作風に見えている、ということはあるのだろうか?

(次回に続く)

buridaikon.hatenablog.com

『詩季織々』(李豪凌、竹内良貴、易小星/2018)

君の名は。』の新海誠が所属するコミックス・ウェーブ・フィルムと、中国のアニメ制作スタジオ絵梦がコラボしたオムニバスアニメ映画。中国の都会に暮らす若者の悩みと成長を美しい風景と共に描く。
 監督は、中国で『万万没想到』等の実写映画を手掛けた易小星、『君の名は。』で3DCGチーフを担当した竹内良貴、絵梦の代表である李豪凌の3名。声の出演は坂泰斗、寿美菜子、大塚剛央ら。中国語での作品名は『肆式青春』。

www.youtube.com


ネタバレしてます。

 湖南省の田舎や、北京の雑踏、上海の高層ビル群や古い路地裏が、新海誠風に美しく描かれ、その点で非常にフレッシュな映像だと感じた。勝手な想像だけど、中国の若い人もこういうセンチメントなのだろうな、と思った。
 以下、個々の作品について雑多に。

「陽だまりの朝食」(易小星)

 湖南省の田舎の出身のシャオミンは、幼い頃に祖母と食べた三鮮米粉を懐かしく思い出す。田舎町の埃っぽいような風景が実に美しく描かれている。ビーフンの麺が結構太い。北京のファーストフード店でシャオミンがビーフンを頼む場面で、店員の愛想がいいのが気になる。演技指導が日本寄りになってしまっているのでは……

「小さなファッションショー」(竹内良貴)

 広州を舞台に、ファッションモデルを務める姉イリンと、デザイナーを目指す妹ルルの、衝突と和解を描く。一つ気になったのは、最近まで一人っ子政策のあった中国で、姉妹という存在がそもそもあるのだろうか? 少数民族や一人目が女性の場合は二人目以降が許容されたりするようだし、いろいろ背景があるのかもしれないが……

「上海恋」(李豪凌)

  上海の古い街並み「石庫門」を舞台とし、カセットテープをキーアイテムに、幼馴染だったリモとシャオユのすれ違う恋を描く。一般的にオムニバスは最終話が最もよく出来ているというものだが、確かに本作が最もお話としての推進力があるものになっている。しかし(というか、むしろ、だからこそ?)、主人公のリモくんは独りよがりな思い込みによって両思いをご破算にしてしまうクソ・オブ・クソ・オブ・クソ野郎で、「すごい、新海誠作品の主人公像がちゃんと東アジアに影響を与えてる……偉大……」という思いでいっぱいになります。そんなところは真似しなくていいと思うし、でも、一回真似してみたかったんだろうなとも思う。

詩季織々 [DVD]

詩季織々 [DVD]