ぶりだいこんブログ

推理小説とか乃木坂46の話をしています。

『ゲームの達人』(上)(下)(シドニィ・シェルダン/1982)

 子供の頃、朝の情報番組のベストセラーランキングでシドニィ・シェルダンの『真夜中は別の顔』等の著作が常に上位をキープしているような時期があった*1。そんなに面白いものなのだろうかと思ったが、当時は翻訳ものに手を出すという考えがなかった。
 その後、確か中島梓のエッセイだったと思うが、シドニィ・シェルダンが取り上げられており、面白いけれど文学性はないというような評価がされていたように記憶している。
 ふと思い出して検索してみたらKindleで購入可能だったので、読んでみることにした。

ゲームの達人(上)

ゲームの達人(上)

 

  シドニィ・シェルダンアメリカの脚本家、小説家。映画脚本家としては1947年にケーリー・グラント主演の『独身者と女学生』でアカデミー脚本賞を受賞。TVドラマでもヒット作を飛ばした。その後、小説家に転じ、『ゲームの達人』、『真夜中は別の顔』、『天使の自立』等のベストセラーを連発。日本ではアカデミー出版による「超訳」で知られる。本書『ゲームの達人』はアメリカで1982年に出版された。日本では1986年に翻訳されている。

 ※以下、ネタバレをしています。

 商品説明にもあらすじが書いてないし、いったい全体どういう話なんだろうとわくわくして読み始めたところ、南アフリカアメリカを舞台に、無名の若者から始まり四代に渡って世界的な財閥を築くに至るまでを、ツイストたっぷりに描く娯楽大作であった。
 プロローグは、ケイト・ブラックウェルという資産家の女性が90歳の誕生パーティーを開く場面である。ここで意味ありげな過去のエピソードがほのめかされ、嵐というつながりから一気に100年前の南アフリカへ時空を飛ばす演出は秀逸。
 全体としては五部構成となっており、一族の始祖であるジェミー・マクレガーがクルーガー・ブレント社を築く第一部、娘のケイトが大番頭のデビッド・ブラックウェルと結婚するまでが第二部、ケイトの息子トニーが画家を目指すようになるまでが第三部、トニーの精神崩壊を描くのが第四部、そして、トニーの双子の娘イブとアレクサンドラの数奇な運命を描く第五部という構成である(ちなみに、第一部の筋立ては概ねアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』のようだ)。
 面白いかどうかでいうと、これほどエキサイティングな小説は滅多にないかもしれない。
 基本的には「人間関係」の「緊張」と「緩和」の「連続」が物語の推進力となっている。この「人間関係の緊張と緩和」で特徴的なのは、緊張している人間関係は原則的に常に一つであり、緩和の過程で新しい緊張が生まれる、という点だ。例えば、物語の始めに訪れる緊張関係は主人公ジェミーとボーア人の狡猾なダイヤモンド商ヴァンダミヤとの間に発生するものだが、この緊張関係が緩和し始めると次はヴァンダミヤの娘マーガレットとジェミーの関係が緊張する。ジェミーとマーガレットの関係が緩和すると、今度はマーガレットと娘であるケイトの関係が緊張する(緊張が緩和する過程で、緊張関係の片一方を担う人物は死亡するか廃人になり物語の舞台からだけでなく人生からも退場するケースが多いのが、本書の容赦なさを際立たせている)。
 もう一つの特徴は、緊張関係にいる当事者が、緊張状態であることを認識していない場合があることだ。例えば、しばらくの間、ジェミーはヴァンダミヤに騙されていることを知らないでいる。マーガレットもまたジェミーに騙されていることになかなか気づかない。完全な状況を知っているのは読者のみである。
 こういった、人間関係の緊張と緩和を矢継ぎ早に提示しつつ、読者だけに緊張状態であることを正確に把握させ、緩和を望ませるというのが物語の推進力になっていると言える。
 一方で、込み入った事件の構造とか、はっとするほど美しい情景描写とか、人生におけるユーモアとペーソスが鮮やかに切り取られているとか、そういう要素はなく、だからこそというか、するすると読み進めることができる。
 キャラクターに魅力がない、とは言うまい。どの人物も思い込みが激し過ぎる嫌いはあるけれど、それぞれなりの信念があって動いているのは分かる。ただ、ヒーロー、ヒロインとして好きになれるような人物がいないこともまた事実であろう。
 エンタテインメントにおいてお話を転がせることは必須であろうが、お話を転がせること「だけ」に特化して物語を組み立てるとこうなる、というある意味実験小説のような作風だとも思った。
 が、ここで気になるのは「超訳」というキャッチフレーズである。超訳というのは、「原作の面白さを充分に引き出すために、作者から同意を得た上で、いたずらに英語の構文にとらわれることがないよう、自由な裁量で日本語の文章を書き上げています」*2ということだが、もしかして、原書は端正な文学小説だが、翻訳によって上記のような作風に見えている、ということはあるのだろうか?

(次回に続く)

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