ぶりだいこんブログ

推理小説とか乃木坂46の話をしています。

『ゲームの達人』の「超訳」と原文の比較

 シドニィ・シェルダンの諸作は、日本ではアカデミー出版より翻訳されており、アカデミー出版はこれを「超訳」と名付けている。

  「超訳」は、自然な日本語を目指して進める新しい考えの翻訳で、アカデミー出版登録商標です。
 「超訳」をひと言で説明するなら、日本語本来の語感を見失わないことを絶対条件にした翻訳のことです。例えば五七五の条件の中で俳句を作るように、といえば分かりやすいでしょうか。
 英語の小説を"普通に"翻訳したとします。つまり、過去形は過去形に、形容詞の数も同じに、関係代名詞も真面目に・・・・・・。でき上がる訳文は、意味は通じても、へんてこな日本語になりがちです。英文法と英語社会の約束ごとを押し込んだ、いわゆる翻訳調の回りくどい日本語です。程度の差こそあれ、この回りくどい日本語の蔓延が翻訳小説の出版事業を著しく困難なものにしていました。読者に敬遠されて本が売れないのです。米国で200万部売れたベストセラー小説が、日本語に訳したら2万部も売れなかった、といった例は枚挙にいとまがありません。
 そこで「超訳」では、原作の面白さを充分に引き出すために、作者から同意を得た上で、いたずらに英語の構文にとらわれることがないよう、自由な裁量で日本語の文章を書き上げています。

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 実際、どの程度「超訳」されているのだろうか? 読み終えたばかりの『ゲームの達人』について、"Master of the Game"を購入し、少しだけ比較してみた。
 比較対象は、原書はHarperCollins Publishers Incの電子書籍2016年3月17日バージョン、日本版は2010年の「新超訳」版である。
 なお、自分は翻訳の素人なので、誤って解釈している点があるかもしれない。また、一般的な翻訳がどのレベルで意訳されているかの知識もないので、これくらいの意訳は当たり前だということもあるかもしれない。

ネタバレしてます。

Master of the Game

Master of the Game

 
ゲームの達人(上)

ゲームの達人(上)

 

プロローグ(1) 

 まずプロローグだが、実は少なからぬ差異がある。ケイトの誕生パーティーが行われる場面であることはおなじなのだが。
 まず日本版の書き出し。

 少数の金持ちが排他的に暮らすアイルズボロ島。米国東海岸メイン州のペノブスコット湾に浮かぶこの島で、この日、稀代の傑女、ケイト・ブラックウェル九十歳の誕生パーティーが催されていた。場所は、海に面して建つ彼女の壮麗な別荘、シーダー・ヒル・ハウス。この物語の舞台のひとつとなる場所である。
 招待されているのは、各界から厳選された百名の男女とケイトの家族のみ。
 ブラックタイで正装した紳士に、きらびやかな夜会服を身に包んだ淑女たち。 (プロローグ)

 個人的にこのような直截的な書き出しは、読者にとって分かりやすく、決して嫌いでない。
 次に原書版の書き出しを見てみよう。うしろに簡単に和訳をつけてみた(間違っているところがあっても許してください)。

The large ballroom was crowded with familiar ghosts come to help celebrate her birthday. Kate Blakwell watched them mingle with the flesh-and-blood people, and in her mind, the scene was a dreamlike fantasy as the visitors from another time and place glided around the dance floor with the unsuspecting guests in black tie and long, shimmering evening gowns. There were one hundred people at the party at Ceder Hill Houese, in Dark Harbor, Main. Not counting the ghosts, Kate Blackwell thought wryly. (Prologue)

 広い舞踏場は彼女の誕生日を祝いに来たなじみの幽霊たちでいっぱいだった。ケイト・ブラックウェルは血肉をもった人間たちに混じる幽霊たちを見た。異なる時間と場所からの訪問者が、黒のタイときらきら光るイブニングドレスを身にまとった疑いをもたない客で満たされたダンスフロアを静かに動き回る光景は、彼女にとって夢のように幻想的だった。メイン州ダークハーバーシーダヒルハウスのパーティーには百人もの人がいた。「幽霊たちを除いて」ケイト・ブラックウェルは茶化すように思った。

 まず思ったのは、全然違うじゃん! というものだ。日本版では、このセンテンスで幽霊云々に一切触れていない(後段では触れられる)。逆に、「少数の金持ちが排他的に暮らすアイルズボロ島」とか「この物語の舞台のひとつとなる場所である」とか原文に書いてないことが書いてある。
 次に、原文の方がより文芸的だと感じた。もちろん好みがあるのでどちらがいい悪いというのは難しいのだけれど、日本版は純粋に事実関係のみを述べており、言外の意はほぼ存在しないといっていいだろう。一方、原文は現実と幻想が入り混じって描かれており、おや、と思わせるものがある。文章自体も日本版に比べると洗練されているといってよいと思う*1
 このあと、ケイトがバンダやデビッドの幽霊を見たり、曾孫のロバートがオーケストラとピアノを弾いて音楽的才能を垣間見させるという場面もあるけれど、日本版では完全にカットされている。

プロローグ(2)

 知事がスピーチをするくだりから、原文と日本版はようやくほぼ同一の流れになる。が、その中でも注目すべき差異がある。

〈(前略)わたしの体に残る銃弾の跡を見せてあげたい。みんなはなんて言うかしら!〉
 かつて自分を殺そうとしたその男もこの会場の祝賀客に混じっている。ケイトがその男に目をやると、男はこちらを見てにやりと笑った。
 男の背後には身を隠すようにして座る女の姿があった。ケイトの視線は男から離れて、その女のところで止まった。顔をベールですっぽり覆っているその女は、ケイトの視線に気づくと、恥ずかしそうにうつむいた。ベールの奥には身の毛もよだつような顔があるはずだ。裁きを受ける前は絶世の美女だったのに。
 遠くで雷が鳴っていた。州知事の演説が終わるのを待って今夜の主役、ケイト・ブラックウェルは立ち上がり、食事を終えた客たちを見回した。 (プロローグ)

   What would they think if I showed them the bullet scars on my body?
 She tunred her head and looked at the man who had once tried to kill her. Kate's eyes moved past him to linger on a figure in the shadows, wearing a vail to conceal her face. Over a distant clap thunder, Kate heard the governor finish his speech and introduce her. She rose to her feet and looked out at the assembled guests. (Prologue)

「わたしのからだにある銃痕を見せたらみんなはなんと思うだろう?」
 彼女は首を動かして、かつて彼女を殺そうと試みた男を見た。ケイトの目は、彼の後ろで顔を隠すためのヴェールをまとい陰に隠れようとしている女性の姿を捉えた。遠くで雷が鳴った。知事がスピーチを終え、ケイトを招いているのが聞こえた。彼女は立ち上がり、集められた招待客を見た。

 男(トミー)、全然にやりと笑ってねー! 女(イブ)、全然恥ずかしそうに俯いてねー! 特にトミーの描写、大胆な加工だなと思うのが、ケイトを殺そうとした人物がなぜ彼女の誕生パーティーにいるのか? というのが読者にとってのミステリーなわけですが、にやりと笑わせることでそれをさらに強調しているんですね(後々、トミーの顛末を知ると、にやりと笑うのは明らかにミスディレクション)。こういう手を加えるか~となかなかびっくりしました。ただ、原文はほのめかし程度で少し分かりづらいかもしれないので、日本版のように伏線として強調するのも、ありといえばありなのかもしれない。

プロローグ(3)

 プロローグの末尾。雷鳴が1982年のアメリカから100年前の南アフリカへ一気に時空を飛ばす名演出だが、これも日本版と原文で若干雰囲気が異なる。

 ふたたび窓の外が光り、雷鳴がとどろいた。ケイト・ブラックウェルは振り向いて家族たちを見下ろした。彼女が話す英語には南アフリカで暮らした先祖のアクセントが残っていた。
南アフリカではこんな嵐を"ダンダーストーム"と呼ぶんです」 (プロローグ)

 There was a blaze of lightning and seconds later a loud clap of thunder. Kate Blackwell turned to look down at them and when she spoke, it was with the accent of ancestors. 'In South Africa, we used to call this a donderstorm.'
The past and present began to merge once again, and she walked down the halfway to her bedroom, surrounded by the family, comfortable ghosts. (Prologue)

 稲光が走り、数秒ののち、雷鳴がとどろいた。ケイト・ブラックウェルは振り返って彼らを見下ろした。彼女が喋り始めた時、そこには先祖のアクセントが混じっていた。「南アフリカでは、こういう嵐をダンダーストームと呼んでた」
 過去と現在が再び融け合い始めた。彼女は寝室へ向かうために階段を降りる。家族と、優しい幽霊たちに囲まれて。

 日本版の、「ダンダーストーム」というキーワードでそのまま第一部へつなげる、切れ味のある演出は悪くない。が、原文はさらにもう一文挟んでいる。この一文を挟むことで、「過去」と「死者」が本書のテーマであることをより際立たせているようにも感じる。

第十四章

 これまで取り上げた例だと改変ばかりに見えてしまうけれど、省略も増補もしていない箇所は当然ある。むしろ基本的にはそちらの方が多い。一つだけ例示を。書名にある「ゲームの達人」というフレーズが登場するくだりだ。文章が一対一になっているので、試訳はいらないと思う。

 ケイトは仕事中心の生活を心からエンジョイしていた。どんな決定にも数百万ポンドのギャンブルが付きまとう。ビッグビジネスとは、機知と、賭けをする勇気と、のるかそるかもタイミングを見計らいながら本能を使ってする真剣勝負なのだ。
 そのへんのことをデビッドはケイトに教え込んだ。
「ビジネスにはゲームみたいなところがある。途方もない額の賭け金をとり合うゲーム。相手は百戦錬磨のつわものぞろいだから、もしゲームの勝利者になりたかったら、"ゲームの達人"になる勉強をしなくては、勝ち目はない」
 ケイトはわが意を得たりと決意を新たにした。今は学ぶときである。 (第十四章)

 Kate enjoyed her new life tremendously. Every decision involved a gamble of millions of pounds. Big business was a matching of wits, the courage to gamble and the instinct to know when to quit, when to press ahead.
'Business is a game,' David told Kate, 'played for fantastic stakes, and you're in competition with experts. If you want to win, you have to learn to be a master of the game.'
And that was what Kate was determined to do. Learn. (Chapter Fourteen)

まとめ

 総じて、日本版は「超訳」の名の通り、事実関係を簡潔に畳みかけ、先取りして伏線を強調することで、テンポよく読み進められるようある程度改変しており、確かに日本で翻訳ものとして大ベストセラーを狙うのであれば、こういうアウトプットになるのかもしれないと思った。
 一方、原文も基本的な話運びは同一であり、その意味で本書の特徴であるスリリングな展開の連続で読者をひきつける手法は変わりないものの、もう少し描写に含意というか味わいがありそうなので、時間が許せばあれば読み通してみたいと思った。

*1:小説の書き出し、についてはいろいろな論があるけれど、個別の小説の書き出しでも優劣をつけるのは難しい。なぜなら、ある小説について書き出しは一つしかないからだ。書き出しAと書き出しBを比べるということはできない。だからといって別々の小説の書き出しを比べても、話が違うのだから単純に書き出しだけを比べるというのはあまり意味がないだろう。
 しかし、『ゲームの達人』は「超訳」というものがあるため、結果的におなじ小説に二つの書き出しが存在することになっている。
 比べると、日本版の書き出しの方がどうにも安っぽい。書き出しだけで比べたら、原文に軍配を上げる。けれども、それはスノビズムというものではなかろうか。含意のある文章は、読むのに神経を使う。仮に原文の文体が続くのだとしたら、数時間読み続けることができるだろうか? むしろ、日本版の方が文章の裏の意味を読み取る必要がなく、筋立て(それもとびきりエキサイティングな)により集中できるのではなかろうか。
 つい凝った書き出しの方を評価してしまいがちだが、それは一種の「読書マウンティング」と呼ぶべきようなものではないか、となんとなく思ってしまった。