マンガ『キングダム』(原泰久)で、楚、という国が登場する。「誰が至強か!? ドドンドドンドン 汗明!」の楚である。楚は春秋五覇、戦国七雄にも数えられる強国だが、殷、周、他中原諸国とは異なる来歴をもつとも言われている。その辺りを詳しく知りたいと思い、本書『長江文明の発見』を手に取った。*1
中国長江の下流、中流、上流でそれぞれ栄えた文化、王国を、近年の考古学的発見を交えながら概説する一冊。
著者の徐朝龍は、中国四川省出身で四川大学卒業後、京都大学大学院へ留学。茨城大学を経て、国際日本文化研究センター助教授着任。本書執筆後、同センターに関係する稲盛和夫の引き合いで京セラへ入社し、同社の中国ビジネスを担当した。
本書は長江文明として下流域の「良渚文化」(杭州市他)、中流域の「屈家嶺文化」(湖北省)、「呉城文化」(江西省)、上流域の「龍馬古城」(成都市)、「三星堆文化」(四川省)といった諸文化の他、呉、越、楚、巴、滇のような王国を取り上げている。
今読むと、著者が黄河文明をライバル視するあまりの大仰な書き振りがやや読みづらい。例えば、下記のようなくだり。
ともかく、中国におけるほんとうの意味での最初の都市文明である良渚文明は、当時の東アジア世界にとって曙光を放つような存在であった。そして、黄河流域の歴代中原王朝に抹殺され、歴史の霧に隠れて四〇〇〇年以上経った今、奪われた名誉を奪回し、稲作農業文明の輝きを世界にアピールすべく、良渚文明は長江流域の中でどこよりも先駆けて華麗に蘇ろうとしている。(角川ソフィア文庫P83~84)
こういった箇所は斜め読みするとして、春秋戦国で活躍した呉、越、楚といった国々がどのように成り立ったのかを見ていきたい。
『史記』によると、呉は周の王族が、越は夏の王族が建国したことになっているが、著者によると、前段として良渚文化が洪水かなにかで衰退したあと、その地の人々の一部が黄河流域へ移動し夏の成立の一翼を担ったとしており、『史記』の記述はその背景を伝説的に示したものではないかと語る。
つまり、越民族が夏王朝との関係を主張したことは、良渚文明が夏文化と深くかかわり、両者のつながりが越国の時代になっても生き残っていたことを物語っている。越民族は昔の王朝の政治的な意向を背景にしたいというよりむしろ、現実として両者間に存在していた長い文化伝統上の一体性を強く意識していたということなのであろう。(同P191~192)
しかるに、呉や越は単純に長江下流域文明を揺籃としたのでなく、夏や殷、周との交流によって成長した国、と言える。ただ、やはり生活様式等は中原と大きく異なっており、「「文身」すなわち「入れ墨」も呉越地方における重要な風習の一つになっていた」(同P193)、「これらの多くの生活習慣と文化伝統はいずれも長江流域における稲作農業に付随して形成されたものである。なお、以上に述べた呉越民族の生活習慣のいくつかに古代日本との共通点も見いだされる」(同P194)。
一方、楚は『史記』では黄帝の孫が開いたとあるが、著者は先述の長江中流域にあった「屈家嶺文化」等を基盤とし、黄河流域の文化を取り込みながら周辺部族を吸収し、次第に強大になっていったと説く。
そして数十の小国を強引に呑み込み、多くの民族を巧みに抱き込んだ楚国のような巨大な多民族国家はそれまでの中国の歴史に出現したことがない存在であった。(同P209 )
楚の根拠地であった現在の湖北省、湖南省も少数民族の自治州、自治県が少なからず存在しており、紀元前は況やだったとすると、楚は一種の「帝国」だったのかもしれない。そういった要素まではさすがに『キングダム』に描かれていない(七雄が他部族をも率いるという描写は、秦や燕でカバーはされている)。
巴と蜀(古代蜀)の関係も面白く読んだ。巴は殷の時代の頃、長江中流域から現在の重慶市の付近にかけて興った。やはり中流域の文化が基盤になっているのでないかと著者は推測する。この巴は殷周革命の際、周側に付いて戦闘へ参加したらしい。やがて中流域で強大化した楚に圧迫され、四川盆地へ西進した。その頃の四川盆地は、三星堆文化を滅ぼした杜宇の王朝があったとされる。巴は治水技術を以って杜宇に成り代わり、開明王朝を開いた。こうして密接に結びつく巴蜀も、秦によって滅ぼされる。秦の始皇帝が中華統一を果たしたのも、四川盆地の農業生産力が大きな貢献をしたと言われている。