ぶりだいこんブログ

推理小説とか乃木坂46の話をしています。

『わたしの名は赤』(上)(下)(オルハン・パムク/1998)

 新型コロナウイルスがなければ今年はウィーンへ行こうと思っていた。日本からウィーンへは直行便もあるけれど、最近、途中降機(ストップオーバー)に関心があるので、イスタンブール経由のターキッシュエアラインでもよい、などと計画を練っていた。ウィーンのついでにイスタンブールでもストップオーバーして観光というのはいいアイディアでなかろうか?
 しかし、観光するにもイスタンブールのことをあまりよく知らない。せっかくだからと本書を手に取ってみた。

 1591年、オスマン帝国下のイスタンブール。皇帝お抱えの細密画絵師が何者かに殺害される。一方、アナトリアからイスタンブールへ帰還した青年カラは、美貌の従妹シェキュレと再会する。やがてカラはイスラムの教義を揺るがしかねない絵師殺人事件へ巻き込まれていく。

 オルハン・パムクは1952年生まれのトルコ人作家。他に『雪』、『無垢の博物館』といった作品がある。本書を含む一連の著作で2006年にノーベル文学賞を受賞した。

 久々に、読み進めてもどういうお話なのか全然分からない小説を読んだ、という思いである。殺人事件が起きて犯人を当てようとするから推理小説のようでもあるし、恋愛小説のようでもあるし、美学に関する小説とも言える。一筋縄ではいかないから「文学」なのだろうが……

 以下、ネタバレしています。

 主人公カラは十二年前、細密画の制作者である「おじ上」の娘で従妹にあたる十二歳のシェキュレに恋をしていたが、不用意に思いを告げたことで放逐される。シェキュレはその後騎士と結婚し、二人の息子を儲けたものの、夫はアナトリアの戦争で行方不明となる。再会したカラとシェキュレは、ユダヤ人行商女エステルを配達役に手紙を交わし、付かず離れずの関係を始める。
 一方、「おじ上」の工房に所属する絵師の一人「優美」が行方不明となる。「おじ上」から調査を命じられたカラは、兄弟弟子の「蝶」、「コウノトリ」、「オリーブ」への聞き込みの過程で細密画の本質に関する問答を行う。その間に「優美」の惨殺された遺体が井戸の底から見つかる。
 殺人者はやがて「おじ上」をも手にかける。誰よりも早くこれを知ったシェキュレは、人生を変える好機とみなす。カラをけしかけ父の遺体を隠し、行方不明の夫との離婚と同時にカラとの結婚を成し遂げるのだった――

 ここまでが上巻のざっくりとしたあらすじである。

 本書で特徴的なのは、章ごとに語り手が次々と交替していくことだろう。カラやシェキュレはもちろんのこと、脇役である「おじ上」やエステルの他に、金貨や、絵に描かれた犬も語り手を担う(金貨が語り手といえば、宮部みゆきの『長い長い殺人』(1992)は財布が語り手だった)。それぞれがそれぞれの立場でしか物事を語らないため、人物や出来事は多角的に描かれ、そして、物語の輪郭はひたすら不明瞭となる。
 また、絵師たちが美学議論として細密画に関する挿話を次々と繰り広げていく。自分のような細密画に関する知識が皆無な人間にとっては、本当の話なのか本書がこしらえた話なのかも判然とせず、ますます迷宮の中をさまようような心持ちである。

 もう一つの特徴は、イスラム文明を世界の中心とする世界観だろう。舞台は16世紀後半、既にヨーロッパはルネサンスを通過しアメリカ大陸を征服している時代だが、本書の中でかの地は辺境の一つに過ぎない。中国も同様である。ヨーロッパや中国の文物の集積する「世界の中心」はあくまでイスタンブールなのである(とはいえ、本書に登場する絵師の中には、ヨーロッパを下に見つつ、ヨーロッパ絵画の「遠近法」に脅威を感じる、というアンビバレンスを抱く者もいる)。一種、価値の転倒のような、フレッシュな読み心地があるのだけれども、それは自分が日本人で日本や欧米の物語に慣れ親しんでいるからに過ぎず、トルコ人からすれば当たり前の話なのかもしれない。

 エンタテインメントとしてぐっとドライブがかかるような箇所もいくつかはあり、カラが絵師の誰かを殺人犯として差し出すか、もしくは自分が拷問を受けるか、を皇帝から迫られる場面などは、エンタテインメントとしても面白く引きつけられた(そういう場面ばかりでもないのが辛いところだが)。
 また、カラが「ユダヤ人の家」でシェキュレへ性行為を迫るさまを巧みに文学的に描く捧腹絶倒な場面なども用意されており、小難しいばかりの小説でもない。

 本書は細密画がテーマの一つである。イスタンブールトプカプ宮殿宝物館やトルコイスラム美術館にはこの時代の細密画が展示されているのだろうか。本書を読んで、改めてイスタンブールへの興味が高まった。