ぶりだいこんブログ

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『世界の歴史〈18〉東南アジア』(河部利夫/1969)

 タイの近代史を知りたいなと思い、以前、南北アメリカ史の巻を読んで面白かった、河出文庫の世界の歴史シリーズを手に取ってみた。

世界の歴史〈18〉東南アジア (河出文庫)

世界の歴史〈18〉東南アジア (河出文庫)

 

  ところで、本書を読んで、コンスタンティン・フォールコンという人物を初めて知った。17世紀、ギリシャ出身の西洋人の身でありながら、タイ・アユタヤ朝の最高官位まで昇り詰めた人物である。

 フォールコンは、イギリス東インド会社の一小船の給仕より身を起こし、タイ国の最高官位チャオプラヤーにつき、フランスの伯爵となり、ヨーロッパ列国の国王及び法王より友とよばれるほどにまでなった。いわばアユタヤ朝における第二の山田長政であったともいえる。だが、やがてその専横に不評があつまり、排除された。

 フォールコンは東インド会社出身という経歴を活かし、東南アジアに進出する西欧諸国と渡り合うことで、アユタヤ朝廷での地位を確立していったが、後ろ盾となったナーラーイ王死去後、失脚し、暗殺された。
 なかなかドラマティックな人生で、フィクションの主人公になってもおかしくないと思う。『ヒストリエ』(岩明均)のエウメネスもそうだが、流浪の人物が外国で立身出世するというのはなかなか惹かれる題材である。

 さて、本題だが、タイの近代化について、著者は近代化直前の日本とタイ双方を訪れたタウンゼント・ハリスの日記を参照した上で、次のように述べる。

 これを読んで感ずることは、ひとりのアメリカ人の目には、当時のシャムと日本が近代への出発点ではほとんど同じようにうつっていたということである。しかし、以米(※原文ママ)一〇〇年のあいだに近代化は大きな程度の差をつくった。なぜだろう。

 実際、タイ近代化の先駆者として知られるラーマ5世の治世は、明治天皇のそれと重なり、明治天皇と比されることも少なくない。また、日本と同様、この時期に列強との不平等条約撤廃が取り組まれた。にも関わらず、こののち、タイはクーデターとその揺り戻しが繰り返されることになる。
 この点について著者はまず、このように述べる。

 たとえば、東南アジアの国々をみると、独立当初民族運動指導者は、デモクラシー形態をこぞって採用したが、やがて失敗した。およそ、真のデモクラシーが成立するためには、中央政府、地方行政組織はもちろんのこと、政党、経済団体、労働組合、宗教団体などが個人の自由な意志を組織し代表するものとして存在することが必要であり、それらがそれぞれの利益にもとづいて政府を動かすようでなければならない。

 ここまでは、まあ、そうかな、と思う。著者はタイで「失敗」があった理由を次のように挙げる。

 東南アジアでの社会的構造をみてみると、そこに「ふたつの社会」が併存していることに気がつく。都市に居住する西欧教育をうけた少数の指導者と、農村の一般大衆が、それぞれにつくっている社会である。都市社会と村落社会を場とした二重構造が画然としているのだ。

 一般に、アジア低開発諸国における政治的エリートや産業指導者は、個人としてはすぐれている。ことに、一般大衆の後進性とくらべてみるとき、きわだってよく見える。しかし、エリートがあまりにも外国的、西欧的な教養で身をよそおっているところに、これまたアジアの伝統に埋没し、長いあいだ閉じこめられて、貧困と屈従のなかにある農民層とのあいだに、背離が生じている原因があるといえるだろう。

 このくだりは少々困惑した。こういった社会構造は、明治期の日本もそう大差ないのではないか? 著者は、農村の非近代的な特徴として、特定の意志決定的リーダーが存在するのでなく共同体メンバーみんなで話し合って意志決定を行うというものを挙げているが、寄り合いのような意志決定システムは『忘れられた日本人』(宮本常一)にある通り、日本の農村、漁村にも存在していた。従って、これを第一の理由として挙げるのは、自分としては十分に理解が及ばなかった。

 とはいえ、著作全体としては、南北アメリカ史の巻同様、東南アジアを一気通貫して描くダイナミックな視点を面白く読んだ。著者は東南アジアを中国とインドという二つの大国に挟まれた地域であり、二つの大国の文化に大いに影響を受けたと見る(こういった史観も、現代の東南アジア諸国の人々がどのように思うか、というのはあるが……)。
 また、1969年の著作であるが、スハルトによる1965年のインドネシア共産党および華僑虐殺にもちゃんと言及があるのもよかった。